がん患者の家族日記

腹膜播種の妻と過ごした体験談

第51話 実家の母

〈がん患者の家族の体験記〉

このBLOGは、がん患者の家族の回想録です。2010年~2019年までの9年間、大腸がん(横行結腸)・卵巣への転移・腹膜播種・肝臓への転移・腸閉塞でも、とても前向きに生き抜いた妻。患者家族である私が、その当時に書いた日記をもう一度読み返し当時の患者家族の気持ちを振返ってみました。

今日は、2014年12月の日記を読み返してみました。

 

2014年12月30日(火)の日記

・通勤途中に新宿宅から携帯に2~3分おきに電話があった。池袋駅に着いて電話をすると「お正月を迎えるお金がない」と、昨日の電話と同じことを聞かされた。
・昨日の会話を覚えていないのか。覚えているが不安で念を押したのかもしれない。
・午後、訪ねた。だいぶ老いた感じがした。何もしてあげていないことを申し訳なく思った。

  ※新宿宅:当時85歳の母が住む、私の実家のこと。

 

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実家のある新宿の寄席「末廣亭

〈2014年の12月

小説や映画などの物語には、前半に伏線があって後半で結末を迎えます。人の一生という物語も、とても良く似ていると思います。

この時点の妻は、4年前の大腸の手術と転移した卵巣の手術を受け、腹膜播種があることがわかっていました。妻は一日でも長く生きることを願って、手術や抗がん剤などの苦しい治療を続けていました。ところが翌年の2015年頃から、定期検査の結果に変化が増えるようになりました。

この当時85歳の私の母は、新宿の実家で一人暮らしをしていました。体調の不良や生活の不安を抱きながら一人暮らしを続けていました。ところが、この頃から冷蔵庫に同じ総菜がいくつもあったり、しまっておいたお金が見当たらないと数分おきに何度も連絡してくることが増え始めました。

これまでの毎日も不安の連続でしたが、翌年になると不安は増加していきました。姉家族が母の世話をとても良くしてくれたおかげで、私は妻に寄添う暮らしを続けることができました。

病む苦しみにある妻と老いる苦しみにある母。二人は2019年7月に、わずか2週間違いで虚空へ旅立ちました。この頃はそんな日が来ることを、夢にも思っていませんでした。

〈思いやることの奥深さ〉 

目の前にいる人の身体や心の状態を想像して程よく寄添う行動のできる人を “優しい人” と呼ぶのでしょう。当時の私は、妻や母の身体や心の状態を想像し行動していたつもりでした。しかし最近になって、自分が心臓や脳の病気になったり、妻を亡くして一人暮らしをするようになると、あの頃の想像力は “自分なりの想像力でしかなかった” と反省しています。

母には、昭和という時代に新宿という街で産み育ててくれたことに感謝しています。同時に、老いの苦しみにあった時に満足に寄添うことができず、申し訳なかったと思っています。
妻には、私と結婚してくれ素敵な子供を産み育て、家族を支えてくれたことに感謝しています。同時に、病で苦しんでいた時に満足に寄添うことができず、申し訳なかったと思っています。

この「がん患者の家族日記」を書くことで、そのことに気づくことができました。

                              

お読みいただきまして、ありがとうございます。

・次回の家族日記は

 〈ふたつの病院〉

を2022年2月20日(日)に予定しています。