がん患者の家族日記

腹膜播種の妻と過ごした体験談

第36話 私の母のこと

〈がん患者の家族の体験記〉

このBLOGは、がん患者の家族の回想録です。2010年~2019年までの9年間、横行結腸がん・卵巣への転移・腹膜播種・肝臓への転移・腸閉塞でも、とても前向きに生き抜いた妻。患者家族である私が、その当時に書いた日記をもう一度読み返し、当時の患者家族の気持ちを振返ってみました。

今日は、2013年9月の日記を読み返してみました。

 

2013年9月2日(月)の日記

・夏の暑い日の手術から今日で13か月目。万全ではない体調だろうに、マイナスな言葉を口にせず暮らすママは立派だと思う。
・会社帰りに新宿の実家に寄る。数日前に体調を崩し、近所の方に付き添ってもら夜間診察を受けたとのこと。今後の暮らしに不安を感じると言っていた。
・しばらく電話をしなかったため、不安が増すことになったのではと反省する。病や老いに対する不安が募ってしまったのだろう。心配りができず反省する。

 ※ 新宿の実家:私の母(この時84歳)が一人で暮らしをしていた私の生家。

 

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3年間お世話になった大宮のFハイム

 

〈2013年の9月

この月の日記を読み返すと、宮城や大阪などへ出張に出かけることが多かった様です。以前は1泊していた出張でしたが、妻の病気がわかってからは日帰り出張にしていました。何かあった時にそばにいたいと思ったからです。

2013年の9月は、私は53歳で妻は51歳でした。私の父は2006年に86歳で亡くなり、母は一人暮らしを続けていました。2009年に肺がん、翌年には腰骨と左腕の骨折などの病気やケガをしましたが、ひとりで頑張って暮らしていました。

冷たいようですが、私は “同じ家での暮らし” ではなく “ほどよい距離での暮らし” の方がお互いに良いのではと考えていました。自分が “じいじ” と呼ばれる様になった今も、息子や娘たちに対して同じように思っています。
この頃の勤務地は、実家から30分位の所にあり、時々は立寄っていました。しかし、いま思えばもっと立ち寄って、たくさん話をすれば良かったと思っています。

典型的な “昭和の母” で、とても辛抱強くて優しい母でした。2016年に施設に入居しました。姉家族はとても優しいファミリーで、施設から病院に移った後も最期まで面倒をみてくれたので、母は幸せだったと思います。

2019年7月11日に亡くなりました。この日は、妻が亡くなる16日前でした。

〈亡くなった人の分を生きている人へ〉 

妻や母や父に対して、もっとこうしてあげれば良かったとか、あんなことしなければ良かったという様な “自分の行動” に反省することがたくさんあります。
同じように、こんな言葉をかけてあげれば良かったとか、あんな言葉は口にしなければ良かったとか “自分の言葉” に後悔することも盛りだくさんです。

どれだけ反省や後悔をしても、今はもう妻も母も父の身体は、この世にはいません。(魂はいつも身近にいると感じていますが・・・)

だから自分の “行動と言葉の反省と後悔” は、子供達ファミリーや妻の両親に向けて実行することで、悔い改めていきたいと思っています。そして妻と母と父には、いつの日にか再会した時にお詫びをするつもりです。

                                 

お読みいただきまして、ありがとうございます。

・次回の家族日記は

 〈普通はありがたい〉

を12月25日(土)に予定しています。