がん患者の家族日記

腹膜播種の妻と過ごした体験談

第32話 結婚記念日25周年

〈がん患者の家族の体験記〉

このBLOGは、がん患者の家族の回想録です。2010年~2019年までの9年間、横行結腸がん・卵巣への転移・腹膜播種・肝臓への転移・腸閉塞でも、とても前向きに生き抜いた妻。患者家族である私が、その当時に書いた日記をもう一度読み返し、当時の患者家族の気持ちを振返ってみました。

今日は、2013年5月の日記を読み返してみました。

 

2013年5月3日(金)の日記

・2度目の手術から274日。

・おかげさまで結婚から25年を迎えた。家族4人で葉山荘にて過ごす。

・鎌倉の街を散歩した。ハイキング、八幡宮のお参り、小町通り江ノ電鎌倉大仏をぐるりと歩いた。その途中で、元女優さんが経営するレストランでランチ。

・保養所での夕食後にマホロバ温泉に行く。手足のこわばりが少しだけ良くなったとママが言っていた。

 ※ 葉山荘:勤務していた会社の保養所(通称「葉山荘」)

 

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心が和むの鎌倉の寺院散歩


〈2013年の5月

私は学校を卒業後、Y運輸という宅配会社に勤務をしていました。会社には、秋谷海岸(神奈川県)と山中湖畔(山梨県)に「葉山荘」「山中荘」という直営の保養所がありました。我が家は、子供が小さい時から家族全員で、5月のGWには「葉山荘」そして年末年始には「山中荘」に行っていました。
この年のGWも葉山荘を訪ねました。5月3日は結婚記念日で、25年目でした。22歳の息子、19歳の娘と一緒に、家族全員で結婚25年をお祝いしました。保養所は、富士山の眺めが最高な「立石公園」に隣接しています。宿泊の翌朝は、夫婦で散歩をしました。

家族で楽しい「結婚25周年の旅」を過ごし帰宅しました。帰宅後の日々は、春に植えた夏野菜たちが成長して、雑草取りなどの畑作業に追われる日々が続きました。

こういう普通の日常を “しあわせ” と呼ぶのだと思いました。

 

〈移り変わるキャスティング〉 

2013年5月の日記に、当時83歳の私の母のことが書かれていました。母は、新宿の実家で一人暮らしをしていました。父が亡くなってから7年が過ぎていました。
妻が亡くなってから2年の私は、母と同様に一人暮らしですが、まだ61歳です。母の日常生活での不便や健康への不安、淋しさに対する対応など、いまの私とは比較にならないほどだったと思います。申し訳なく思います。

両親の子供として生まれ、妻とは学生時代に知り合った私です。友達から恋人になりました。そして夫婦となりました。さらに妻は母となり私は父となりました。いま私は、3歳の孫から「じいじ」と呼ばれ「はいよ」と鼻の下を伸ばしながら返事をしています。同じ私なのですが “キャスティング” は変化しています。

子から青年、青年から彼、彼から夫、夫から父、父からじいじへ。
新しいキャスティングに変わるたびに、他者の恩をあらためて知り、そして感謝している “気がつくのが遅いわたし” であります。

                                 

お読みいただきまして、ありがとうございます。

 次回の家族日記は
 〈娘の誕生日〉

を12月11日(土)に予定しています。

 

 

第31話 友との別れ

〈がん患者の家族の体験記〉

このBLOGは、がん患者の家族の回想録です。2010年~2019年までの9年間、横行結腸がん・卵巣への転移・腹膜播種・肝臓への転移・腸閉塞でも、とても前向きに生き抜いた妻。患者家族である私が、その当時に書いた日記をもう一度読み返し、当時の患者家族の気持ちを振返ってみました。

今日は、2013年4月の日記を読み返してみました。

 

2013年4月12日(金)の日記

・ママとO三敬病院に行った。手のこわばりは抗がん剤の副作用と考えるのが一般的だろうと言われた。漢方薬で症状を緩和することとなった。

・K氏からのメールで同期のRが亡くなったことを知った。自宅で1ケ月くらい前に亡くなっていたのが、発見されたのは最近らしい。死因については不明とのこと。

新宿の母と電話で話す。最後に「元気でね」と言われた。

 ※ K氏:大学時代のクラブの仲間 R:同じくクラブの仲間

 

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たくさんのことを学んだ海(葉山森戸海岸)

〈2013年の4月

春になり桜が咲く季節になっていました。子供達の学校は新学期、会社は新年度を迎えあわただしい日が続いていました。妻の副作用は、主に手のこわばりでした。日常生活で不便なことが多かったようで、気の毒な気持ちでいっぱいでした。

妻のことを素晴らしいと思うのは、身体の具合が良くない日は何日もあったでしょうが心はいつも穏やかで目が合うとニコっと微笑んでくれました。朝晩の「おはよう」「おやすみ」、会社へ行く時と帰った時の「いってらっしゃい」「おかえり~」の言葉とイントネーションは今も心に残っています。

副作用の苦痛と再発・転移への不安を抱えながらも、家族で穏やかな春を過ごしていた時期でした。

 

〈出逢いと別れはワンセット〉 

小学校時代は野球。中学校時代はバスケットボール。高校時代はラグビー(途中退部)とバスケットボール。大学時代はヨットを経験しました。それぞれのスポーツから多くのことを学びましたが、ヨットを通じて海から学んだことはダントツでした。

大学時代のヨット部は合宿所暮らしでした。今も40年超の付き合いが続いています。私の同期は7人いましたが、そのひとりの死をこの月に聞きました。同期の中でもリーダー的な存在で、誘われて一緒にアルバイトもしていました。

生きていると様々な苦しみに出会いますが、仲間や愛する人と別れる苦しみは、その筆頭ではないでしょうか。出逢いは、楽しくてときめいて心が躍ります。しかし、紙に表裏があるように出逢いと別れは表裏一体なのだと感じた春でした。

                                 

お読みいただきまして、ありがとうございます。

 次回の家族日記は
 〈結婚記念日25周年〉

を12月8日(水)に予定しています。

 

 

第30話 夫婦で畑作業

〈がん患者の家族の体験記〉

2021年12月1日です。今日は、2013年3月を振り返ってみました。

このBLOGは、2010年~2019年までの9年間、横行結腸がん・卵巣転移・腹膜播種・肝臓転移・腸閉塞でも前向きに生き抜いた妻と家族の日記です。

その当時に書いた日記を読み返しながら、患者家族の当時の気持ちを書いてみました。

 

2013年3月24日(日)の日記

・昨日に続き今朝もEをバイト先へ車で送り、帰りは都内の桜を見ながら帰宅した。街中のあちらこちらで桜が咲いていて、日本の美しさを感じた。
・家の掃除と昼寝をした後、ママと柳瀬川へ散歩に行った。見事に咲く桜並木を歩き金山公園でしだれ桜を見て、川の反対岸を歩いて帰った。
・これから先、何度も何度もこの景色を一緒に見たいと思う。

 ※ E:娘のこと(当時20歳)

 

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たくさんのことを学んだ “はじめての畑”



〈2013年の3月

桜が咲き始めた3月も、抗がん剤治療の副作用は続いていました。再発や転移を恐れて実施している抗がん剤治療ですが、副作用は本人はもちろんですが家族にとっても辛いものでした。抗がん剤治療をしなければ副作用から解放されるのですが、白血球が低下して抗がん剤治療が延期になると、再発や転移が起きるのではないかと言う不安が襲ってくるという日々でした。

定期的に実施する経過観察に加え、妻の体調に変化があることがわかるとM先生に報告をして必要な検査をしていました。その結果を聞くために病院を訪問する車の中や待合所での二人は、本当は心配で仕方がないのに、わざと病気とは関係ない話をしたりして気を紛らわせていることが多かったように思います。

通院日数が増すごとに、待合所には見覚えのある患者さんが増えてきました。ひとりで来院している人が多いように思いました。そんな中、私たちは一緒に通えることができました。会社や職場の仲間には、感謝の気持ちでいっぱいでした。

 

〈ふたりで参加した畑作業〉 

ポストに一枚のチラシが入っていました。自宅から10分位の農家さん(80歳代)が畑の一部と種や苗、農機具などを提供してくれ指導もしてくれるという内容でした。
春には夏野菜を育て始め、その後は冬野菜を育てる。そして1月から3月までは畑を休める。無農薬にこだわり雑草取りや虫対策なども教わりました。

出来栄えが今一つの野菜があった時に、頑張ったけれど出来栄えが悪かったという内容のことを園主さんに伝えたところ、「頑張ったのは野菜ですよ。畑をやる人間は、土を耕し、水をやり、雑草や伸びすぎた葉をとり太陽が当たり易くするだけです」更にこう続けました。「育つための環境を作るんです。手抜きをするとこうなりますよ」

子育て、夫婦や職場の人間関係など・・・すべてに当てはまる重い言葉でした。

妻が申し込んだ夫婦での畑作業は、喜怒哀楽満載でとても楽しい時間でした。
この時間も命の時間を長くできた大切な出来事だと思っています。

                                 

お読みいただきまして、ありがとうございます。

 次回の家族日記は
 〈友との別れ〉

を12月3日(金)に予定しています。

 

 

第29話 A型インフルエンザ

〈がん患者の家族の体験記〉

2021年11月28日です。今日は、2013年2月を振り返ってみました。

このBLOGは、2010年~2019年までの9年間、横行結腸がん・卵巣転移・腹膜播種・肝臓転移・腸閉塞でも前向きに生き抜いた妻と家族の日記です。

その当時に書いた日記を読み返しながら、患者家族の当時の気持ちを書いてみました。

 

2013年2月9日(土)の日記

・昨日、会社を早退した。体温が38.7度だった。

・今日、念のために診療所に行ったところ「A型インフルエンザ」と言われた。全くの不覚である。日々、気を付けていたのに・・・
最近参加した「業績表彰式」か「北関東支店会議」で感染したのだろうか。手洗いとうがい以外に鼻うがいもしておけば良かった。反省だ。

・ママに移さないようにしよう。

 

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今はない「診療所」の跡

 

〈2013年の2月

最近はコロナの感染予防対策が浸透したことで、インフルエンザの罹患者数は減少しているのだと思います。しかし、この頃の冬場は「インフルエンザ対策の実施」は、職場でも家庭でも重要事項だったと思います。

2012年9月から抗がん剤治療がメインとなっていた我が家で心がけていたことは、白血球が低下して風邪などの病気にかかり易い状態にある妻を、ウイルスから守ることでした。私も息子も娘も、会社や学校やバイト先からウイルスを持ち帰らないように、細心の注意をしながら暮らしていました。

ところが、そんな私がA型インフルエンザにかかってしまいました。面目ない限りで、己が愚か者であることをあらためて自覚しました。
この日から2階の娘の部屋を借りて、治るまで独居生活をしました。食事もドアの前に置いてもらい、会話も携帯電話で行いました。2階のトイレは私専用にしました。

熱が下がり体調も整った頃に、再び診療所で検査を実施してもらい「インフルエンザではない」と言うことを確認してから、独居生活を解き会社にも通うようにしました。

 

抗がん剤治療と副作用〉 

2010年12月に「大腸がんの摘出手術」を実施しました。2011年1月から抗がん剤治療を開始しました。しかし、副作用が強く84日間で中止しました。
2012年8月に「卵巣に転移したがんの摘出手術」を実施し、9月から抗がん剤治療を開始しました。

短期入院して点滴で抗がん剤を注入するのですが、点滴時の吐き気、相部屋での食事時の匂いへの不快感、日常生活での手のしびれ、白血球の低下などの副作用がありとてもつらそうでした。

その頃だったと思います。私は「食器洗い機」を購入し台所に設置しました。これがあれば、手のしびれ対策として良いのではと考えたからです。しかし、妻は使うことはありませんでした。

一人暮らしになったいま、私は自分で台所に立って料理をしたり片づけをしています。そこで思ったのは、「大きくて邪魔だな」と言うことです。結局は廃棄しました。

愚か者を証明する話の続編ですが、手のしびれを感じる妻に「食器洗い機」を買うのではなく、食器洗いを含めた食後の片づけを私がやれば良かったのです。

気づくのが今では遅すぎますよね・・・

                                 

お読みいただきまして、ありがとうございます。

 次回の家族日記は
 〈夫婦で畑作業〉

を12月1日(水)に予定しています。

 

 

第28話 もう一人の主治医

〈がん患者の家族の体験記〉

2021年11月22日です。今日は、2013年1月を振り返ってみました。

このBLOGは、2010年~2019年までの9年間、横行結腸がん・卵巣転移・腹膜播種・肝臓転移・腸閉塞でも前向きに生き抜いた妻と家族の日記です。

その当時に書いた日記を読み返しながら、患者家族の当時の気持ちを書いてみました。

 

2013年1月5日(土)の日記

・J大付属病院に行き12月27日に実施したCT検査の結果を聞いた。がんマーカー検査の結果を含め、再発も転移もしていないとのことで、大いに安心した。飛び上がりたい気持ちである。

・M先生の口からこの言葉を聞くまでの時間の何と不安なことか・・・

・3か月ごとにCT検査を行う予定なので “平常心” を持てるようにならないといけないと思う。そう思う新年である。

 

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自宅近くにある “水天宮”

 

〈2013年の1月

山中湖にある会社の保養所に家族全員で行き、年末年始を過ごすのが恒例行事でした。この年も雪化粧をした富士山に家族の無事を祈願してきました。

J大付属病院のM先生は、2012年9月から抗がん剤治療を受けている主治医です。M先生の素晴らしいところは、患者と患者家族に寄り添ってくれるところです。妻の言葉に耳を傾け、抗がん剤治療の副作用を軽くするための工夫や処置をしてくれました。それだけでなく、私たちが再発転移を防ぐために、抗がん剤治療だけでなく川越にあるO三敬病院O先生の漢方薬治療を受けたいと申し出た時には、これまでの病状や治療内容などを用意してくれました。

これまでに私たち夫婦が参加した「がん患者や患者家族が集まる会」で耳にしたことは、 治療中に他の病院に行くことはあり得ないことであり、抗がん剤治療の中止を申し出たら来院を断られたという様な話でした。
このような話を何度か聞いていたので、M先生の対応にはとても感謝しました。

M先生と私は、妻のことを何度も話し合いました。ある時「医者は患者さんから痛みや病気を取り除くためにいる」とM先生は言っていました。そんな考えの先生だからO先生の漢方薬治療も賛成してくれたのだと思います。

 

〈当時77歳の消化器外科医師〉 

1月7日(月)に、M先生から預かった資料を持って川越市にあるO三敬病院を訪ねました。O先生は、文京区にある大学病院で食道がんの医師として活躍された医師です。西洋医学の標準治療だけでは、再発や転移を防ぎ切れないと東洋医学を取り入れたことで有名な先生でした。私たちも本でO先生の存在を知りました。

横行結腸がんが播種によって卵巣に転移した我々にとっては、もし更なる転移があっても手術はできず、副作用の強い抗がん剤治療しか残された方法はないという思いから、転移に対する不安はとても大きなものでした。

診察室に入ると優しそうなO先生が立って迎えてくれました。事前にM先生の用意してくれた資料を読んでくれている様子で、妻の方に向かって座り話をじっくりと聞いてくれました。PCなどは一切見ません。十分な問診と触診をしたあとで「大丈夫。打ち手はたくさんあります。一緒にがんばりましょう」と言ったことを覚えています。そして立ち上がって私たちを診察室から見送ってくれました。
この言葉を聞いて涙が出ました。希望が持てました。病状は何も変わっていないのに帰りのふたりは、気持ちが楽になっていたように記憶しています。

早々にJ大付属病院のM先生には、O三敬病院での診察内容と処方された漢方薬の内容を伝えました。この日から「4人の家族チーム」と「M先生とO先生の医療チーム」が連携して過ごすようになりました。

                                 

お読みいただきまして、ありがとうございます。

 次回の家族日記は
 〈A型インフルエンザ〉

を11月28日(日)に予定しています。

 

 

第27話 著名人のがん報道

〈がん患者の家族の体験記〉

2021年11月17日です。今日は、2012年12月を振り返ってみました。

このBLOGは、2010年~2019年までの9年間、横行結腸がん・卵巣転移・腹膜播種・肝臓転移・腸閉塞でも前向きに生き抜いた妻と家族の日記です。

その当時に書いた日記を読み返しながら、患者家族の当時の気持ちを書いてみました。

 

2012年12月8日(土)の日記

・布団干し、掃除、窓ふき、クリスマスの飾りつけなどを行った。家にあるものを使って窓の下に小さなツリーを置き、室内の飾りつけをした。

・午後3時過ぎにママの病院に着いた。身体が少しだるい様だが明るい笑顔を見せてくれた。

・帰り際、病院前の横断歩道を渡り終えた時に振り返って病室を見上げると、夕暮れの中こちらを見送ってくれていた。手を振りあう二人・・・
我ながら映画のワンシーンの様だった。

 

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飾ることで感じる幸せ

〈2012年の12月

12月7日(金)から3回目の抗がん剤治療のために、妻は入院しました。回数を重ねるごとに副作用の辛さは増していたのだと思います。しかし辛いとか苦しいとかの言葉を口にしませんでした。いつも優しくニコニコしていました。そんな妻が無口でいるときは、相当に辛い思いをしていたのだと思います。
12月頃の私たちの会話ですが、妻は「抗がん剤、効いてるといいね」と言い、私は「効いているよ」と言っていました。そんなことが当時の日記に書かれています。

〈歌舞伎役者さんの死〉 

3回目の抗がん剤治療が終了して帰宅した妻を楽しませたくて、家の掃除をしてクリスマスツリーなどの飾りつけをしました。空間にはパワーがあるのではと思います。光や飾りつけ、そこにいる人、流れる音や漂う香りなどによって、その場にいる人々の免疫力をあげるのだと思います。私の気まぐれな飾りつけではなく、妻の人柄と子供たちの存在のおかげで、この12月も我が家は穏やかな雰囲気に包まれていた様に思います。

それでも困った雰囲気になることが時々ありました。
テレビから突然流れる “有名な方々の逝去を知らせるニュース” です。ちょうどこの12月は、中村勘三郎さんが亡くなったニュースが流れました。また、時期は異なりますが、女優さんや俳優さん、スポーツ選手の方々が “がんになりました” とか “がんで亡くなりました” という報道が流れる時があります。これらの報道は、当然ですが突然流れます。そして、場合によっては繰り返し放送されることも少なくありません。

この様な時は、ご冥福を祈ることはもちろんですが、他人ごとではないため、困惑することもありました。そして、そういう時は夫婦や家族が一緒になって、空間の雰囲気を変える努力をしたように記憶しています。

                                 

お読みいただきまして、ありがとうございます。

 次回の家族日記は
 〈もう一人の主治医〉

を11月22日(月)に予定しています。

 

第26話 安心と不安の日々

〈がん患者の家族の体験記〉

2021年11月13日です。今日は、2012年11月を振り返ってみました。

このBLOGは、2010年~2019年までの9年間、横行結腸がん・卵巣転移・腹膜播種・肝臓転移・腸閉塞でも前向きに生き抜いた妻と家族の日記です。

その当時に書いた日記を読み返しながら、患者家族の当時の気持ちを書いてみました。

 

2012年11月17日(土)の日記

・卵巣転移の手術から107日目。

・J大付属練馬病院へ行く。11/2~11/4に実施した抗がん剤治療から2週間が経過した時点での診察だ。白血球が2400と低下していたため、12/1に再度診察をして、第3回目の抗がん剤治療の日程を決めることになった。

・帰りの車の中でママが、「転移する気がしない」「抗がん剤治療の間隔が空くと1クールの終了は半年を過ぎる」「抗がん剤治療中の遠くへの旅行は不安だ」などと言っていた。

 ※ 遠くへの旅行:妻から「来年になったら旅行に行こう」と言われ、オーストラリア 

   が候補地にあがっていました。(10月29日の日記より)

 

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びんずるさま(病気を取り除いてくれる仏さま)

〈2012年の11月

この頃の日記を読み返すと、抗がん剤治療を中心に不安と安心が交互に押し寄せる時期だったことが思い出されます。不安のひとつには、抗がん剤治療ができない事への不安です。治療前の血液検査の結果で、白血球の数値が低いと治療は延期となります。延期するとがんが大きくなるような気がして不安が増します。
ふたつめの不安は、治療後の副作用です。妻は、指先にしびれがでたり吐き気がしたりの副作用に悩まされ、その症状が長く続くのではないかと不安になりました。
抗がん剤治療が無事にできて、副作用も治まって退院できると安心します。
その繰り返しだったように思います。

妻は辛さを私たち家族にほとんど言いませんでした。言ったところで治るものではないと思っていたのか、とにかく辛抱強い人でした。
心配性の私です。妻は、自分自身の言葉に私が心配をして、過剰に反応すると思っていたのかもしれません。私は患者の家族として、一生懸命に行動していたつもりですが、その行動が患者本人である妻の心の負担になっていたのかもしれません。

 

〈紙の裏と表〉 

紙の裏と表を決めるのは、自分自身ではないかと思います。
折り紙サイズの小さな紙があり、片面は白色でもう片面は黒色とします。

幸せを感じた1日を過ごせた日は、白い面が見える様にリビングの壁に貼ります。
幸せを感じることができなかった日は、黒い面が見える様にリビングの壁に貼ります。1年の終わりにリビングの壁を見た時に、白色が多ければ “幸せをたくさん感じた1年” ということになります。一生も同じです。

残念ながら出来事の中には幸せを感じにくい出来事もあります。
しかし、その出来事の受け止め方次第で、幸せと感じることができる様な気もします。エレナ・ポーターさん著の「少女ポリアンナ」の影響かもしれませんが・・・

妻のがんという病気は、歓迎できない出来事です。しかし、この頃の日記を振り返ると不安と不安と少しの安心、そしてまた不安・・・を繰り返す日々でした。
この様な日々を過ごしながらも、家族がワンチームとなって過ごしていた時間は
 “幸せを感じる時間”
であった様にも思います。

                                 

お読みいただきまして、ありがとうございます。

 次回の家族日記は
 〈著名人のがん報道〉

を11月17日(水)に予定しています。