第25話 寄り添うことの難しさ
〈がん患者の家族の体験記〉
2021年11月10日です。今日は、2012年10月を振り返ってみました。
このBLOGは、2010年~2019年までの9年間、横行結腸がん・卵巣転移・腹膜播種・肝臓転移・腸閉塞でも前向きに生き抜いた妻と家族の日記です。
その当時に書いた日記を読み返しながら、患者家族の当時の気持ちを書いてみました。
2012年10月2日(火)の日記
・卵巣に転移したがん切除の手術から61日。2か月が過ぎた。
・2回目の抗がん剤治療の日程を決める検査のため、ママは電車に乗り一人でJ大付属練馬病院へ行った。血液検査の結果、白血球の値が2,000以下だったため注射をしたとのこと。血液検査だけの予定だったので会社に行ったのだが、同行しなかったことを悔やみ、不快な気持ちになった。
・明日も病院に行き注射をすることになったので、車で一緒に行くと言ったら電車で行くから大丈夫とのこと。その後の私の言動で傷つけてしまったようで、泣かれてしまった。
・想いが空回りしてしまう一日で何とも情けない。すっかり自信を失った。
〈2012年の10月〉
我が家の抗がん剤治療は、外来で血液検査を実施して投与基準に達していることを確認したうえで、3日間程度の入院をして点滴をするという方法でした。第1回目は、9月21日から23日に実施しました。第2回目を実施するための血液検査を10月2日に実施したのですが、白血球の数値が投与基準に足りない日が続いたのが10月でした。
私は、妻のがんを知ってからは、この病気を完治させることを最優先に行動してきました。しかし、いま思えば自分本位の言動が多く、この「がん患者の家族日記」を書く様になってはじめて「妻の気持ちを察することができていなかった」と反省しています。
妻にすれば、結果を聞くとか何かを判断するとかではなく、血液検査を実施する内容の通院に “会社を休んで同行するなどの私の行動” は迷惑だったのかもしれません。
私に必要以上の迷惑をかけたくないという思いがあったのだと思いますが、私はそんな妻の気持ちに気づかないで親切の押し売りをしていたのでしょう。相手のためになるように寄り添うためには、相手の心を思う “想像力” が不可欠なのだと思います。
本当の思いやりというのは、相手の心の負担にならない様に、静かにするものなのではないかと、今頃になって知る愚か者です。遅すぎますよね。いつの日か私も大宇宙の果てに行く日が来て、妻の魂と再会できたら「ごめんなさい」と言うつもりです。
〈子供たちに学ぶこと〉
18日に2回目の抗がん剤治療のため入院したのですが、白血球の数値が再び低下しており実施を見送りとなり、実施できたのは11月になってからでした。また、腰痛を訴える日が何日もあり、骨盤や膀胱などへの転移を心配して過ごしていました。
ふたりの子供たちは、自分たちの学校生活やアルバイト、仲間との時間を大切にしながら、夕食時などにそこで起きた出来事を妻に話したりしながら暮らしていました。
もちろん妻の体調を心配していましたが、いつもの様に暮らしていました。母親の手伝いをしながらも母親を頼りにして過ごす。それが母にとって、最も楽しくて心の支えになっていると、ふたりの子供たちは考えていたのかもしれません。
自分以外のすべての人は、自分にとっての師匠なんだと思います。
お読みいただきまして、ありがとうございます。
次回の家族日記は
〈安心と不安の日々〉
を11月13日(土)に予定しています。
第24話 腹膜播種と抗がん剤治療
〈がん患者の家族の体験記〉
2021年11月6日です。今日は、2012年9月を振り返ってみました。
このBLOGは、2010年~2019年までの9年間、横行結腸がん・卵巣転移・腹膜播種・肝臓転移・腸閉塞でも前向きに生き抜いた妻と家族の日記です。
その当時に書いた日記を読み返しながら、患者家族の当時の気持ちを書いてみました。
2012年9月1日(土)の日記
・卵巣の手術から30日目。
・J練馬病院へ行った。レントゲン検査と血液検査の結果に異状はなく大いに安心した。但し、ママが腰が痛いと伝えたことで、9月3日に「骨シンチ」という検査を行うこととなった。腰骨への転移がないか検査結果が心配である。安心が続きますように・・・
・Nは練馬宅に続き新宿宅を訪問し、老夫婦たちを見舞ってくれた。とても助かった。またEは、サークルから帰宅するとすぐにママのことを聞いてきた。みんなすばらしい。
※ N:息子、E:娘、練馬宅:妻の実家、新宿宅:私の実家のことです。
〈2012年の9月〉
腹膜播種があることを伝えられた私たちは、検査や治療をスムーズに実施できる様にするためセカンドオピニオンをおこない、すべての受診科があり、長期にわたり通院するのに便利なJ練馬病院へ移りました。そして、抗がん剤治療が開始されました。
消化器外科のM先生が主治医となりました。このM先生は、医師としての経験や知識や技術だけでなく、人としての優しさと厳しさのある先生でした。
転院した後の9月1日の診察時に、妻が腰が痛いことを伝えると、3日に骨シンチ検査を実施してくれました。そして検査結果ですが、次の診察日まで待つことなく6日の夜に「骨への転移はありませんでしたよ」と電話をくれました。私たちの不安な時間を少しでも短くするための電話だったのだと思います。我が家はちょうど夕食時で、家族みんなで万歳をしました。
9月18日は妻の誕生日です。妻の両親も参加して50歳の誕生日会を開催しました。そして20日の午後に、1回目の抗がん剤治療を実施するために入院をしました。そして24日に退院をしました。退院から数日後の29日にコスモスを見るため昭和記念公園へ行ったことが当時の日記に書かれていました。
〈真剣な中にも笑いあり〉
患者の家族である私は、妻のことで精いっぱいの日々を過ごしていました。実はB医大で妻が手術をするために入院をしている頃から腹や背中に激痛を感じていました。その時私は「ママは2度目の手術に耐えている。この位の痛みは我慢しなければいけない」と思って我慢していました。しかし、あまりにも激痛が続くので病院へ行ったら「尿道結石」とのことでした。座薬をもらったのですが自分ではできず、子供たちに頼んだのですが美大生だった娘には断られ、薬学部に通う息子に処置してもらいました。
この時の私の頼む姿は、父としての威厳は皆無で理不尽この上ない頼み方だったと思います。そして、その依頼を押し付けあう二人のやり取りは、まるでコントの様でした。
今では笑い話ですが、妻の知らないところでこんなことが起きていました。
妙な精神論で頑張らないで、早めに病院へ行っておけば良かったと反省しています。
お読みいただきまして、ありがとうございます。
次回の家族日記は
〈寄り添うことの難しさ〉
を11月10日(水)に予定しています。
第23話 ステージⅣ
〈がん患者の家族の体験記〉
2021年11月3日です。今日は、2012年8月を振り返ってみました。
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その当時に書いた日記を読み返しながら、患者家族の当時の気持ちを書いてみました。
2012年8月2日(木)の日記
・午前8時10分、ママが手術室に向かった。午後1時少し前に病室に戻った。
・術中迅速診断で「大腸(横行結腸)がんの転移性がん」であることがわかった。
左卵巣と右卵巣と骨盤付近の腫瘍と疑いのある部位を切除した。
・約10日後に切除した腫瘍の検査結果が判明し、今後の治療方針が決定される。
・切除手術は無事に終了。次なる課題解決に向けてGO!!
・F病院での1回目の手術から595日目に、B医大で2回目の手術を実施。
〈2012年の8月〉
卵巣の左側に嚢腫を発見してから2ケ月が経過して、やっとの思いで手術をすることができました。そして手術から7日後、消化器外科と婦人科の先生から病理検査の結果と今後の治療方針の説明を受けました。
卵巣にあるがんは、卵巣がんではなく大腸からの転移がんでした。血液を経由しての転移ではなく、大腸にあったがんがお腹の中にある臓器を包み込んでいる “腹膜” という大きな袋の中に飛び散ったことによる転移との説明でした。
腹膜という大きな袋のあちこちに飛び散っている可能性があるため、今後新たながんを発見しても、現在の西洋医学の標準治療としては手術は実施しないで「抗がん剤治療」が中心となっていくとのことでした。
がんのステージは、この時 “Ⅱ” から “Ⅳ” になりました。B医大では、抗がん剤治療を実施していないとのことで、8月12日に退院することになりました。
退院後に、大腸がんの手術を実施したF病院を訪ね、手術結果の報告と抗がん剤治療の相談をしました。
患者である妻は、大変なショックで絶望感を抱いたことだと思います。物静かで優しい女性でしたが、一生懸命に事実を受け止めようとしていることが伝わってきました。
患者の家族である私は、6月から8月までに費やした時間と心配を振り返り、安定した治療を安心して受けたいと痛感していましたので、セカンドオピニオンを受けるために練馬高野台にあるJ大練馬病院を8月25日に訪ねました。
抗がん剤治療を前提に、自宅から通いやすいこと、入院して抗がん剤治療をする場合を考慮して私の通勤途中の駅にあること、そして転移や再発などの万一に備え、すべての受診科があることが、この病院をセカンドオピニオンの訪問先に選んだ理由でした。
そして、たいへん素晴らしい先生に出逢うことができ、F病院とB医大の先生方とも相談のうえ、これまでの治療に関する資料を携えて、9月からJ大練馬病院で抗がん剤治療を開始することになりました。
お読みいただきまして、ありがとうございます。
次回の家族日記は
〈腹膜播種と抗がん剤治療〉
を11月6日(土)に予定しています。
第22話 2度目の入院
〈がん患者の家族の体験記〉
2021年10月29日です。今日は、2012年7月を振り返ってみました。
このBLOGは、2010年~2019年までの9年間、横行結腸がん・卵巣転移・腹膜播種・肝臓転移・腸閉塞でも前向きに生き抜いた妻と家族の日記です。
その当時に書いた日記を読み返しながら、患者家族の当時の気持ちを書いてみました。
2012年7月30日(月)の日記
・所沢市にあるB医大にママが入院した。開腹手術後の方針について説明を受けた。進む以外に選択肢はない。先生たちに頑張っていただくこと、ママに頑張ってもらうこと、私たち家族ができること。冷静に考えて、できることを自覚し精一杯行動するしかない。
・みんなで頑張ろう。
〈2012年の7月〉
2012年7月は、とても暑い夏だった記憶があります。激動の1ケ月でした。
6月8日に「卵巣部分に嚢腫がある」と言われてから1ケ月後の7月6日に、嚢腫ではなくがんの可能性が高いこと。卵巣を原発とするがんなのか大腸の転移がんなのか、良性なのか悪性なのかは、摘出してみないとわからないと言われました。
そして、横行結腸がんの手術をしていただいたF病院から紹介されて、産婦人科のある隣町のB医大に転院することになりました。
B医大に転院してからも胃カメラやMRIなどの検査を実施するのに20日以上の日数が必要でした。そして卵巣にあるがんが胃の転移がんの場合は、卵巣にあるがんの摘出手術はできないと説明されました。手術ができない状況に直面した時のことを考えると絶望感はとても大きいものでした。
しかし検査の結果、胃にはがんがなかったことが判明し、卵巣にあるがんの手術が実施できることになりました。この時は、手術ができることに感謝をして喜びを感じる様になっていました。まさに「足るを知る」の心境でした。
いま振り返れば、予測されるリスクを必要な検査を丁寧に実施することで安全な手術を行っていただいたことを理解し感謝しています。しかし、この頃の私たちは手術日の遅れることで、がんがどんどん成長していると思えて、とても恐怖な毎日でした。
私たちと同じような経験をしたことのある方々は、多いのではないでしょうか。
〈チームづくりの重要性〉
患者である妻は、病気に負けない努力を懸命に続けていました。患者家族である私は、患者である妻を中心に、横行結腸がんの手術をしていただいたF病院の先生と、卵巣嚢腫の検査をしていただいたU病院の先生と、卵巣の手術をお願いするB医大の先生方が連携していただける様に、患者である妻に関する様々な情報を提供することに一生懸命になっていた様に思います。
そして7月30日の晴れた月曜日、2回目の手術をするために入院しました。
お読みいただきまして、ありがとうございます。
次回の家族日記は
〈ステージ4〉
を11月3日(水)に予定しています。
第21話 卵巣転移の疑い
〈がん患者の家族の体験記〉
2021年10月27日です。今日は、2012年6月を振り返ってみました。
このBLOGは、2010年~2019年までの9年間、横行結腸がん・卵巣転移・腹膜播種・肝臓転移・腸閉塞でも前向きに生き抜いた妻と家族の日記です。
その当時に書いた日記を読み返しながら、患者家族の当時の気持ちを書いてみました。
2012年6月8日(金)の日記
・F病院に定期検査の結果を聞きに行った。横行結腸がんの再発・転移は見当たらないと言われ安心した。しかし、輪切り写真を見ていたら卵巣部分に嚢腫があることに気づき、その場で紹介状を書いてもらいU病院に行った。
・U病院ですぐにできる検査を行い、後日MRI検査を実施することとなった。今はその結果を待つ身である。どんなことが何度あってもくじけずにいくぞ!
※ U病院:F病院は婦人科がないため紹介された、同じ市内にある産婦人科病院。
〈2012年の6月〉
2010年12月の横行結腸がんの手術から順調な経過を過ごしてきました。しかし、6月8日の診察時に「卵巣部分に嚢腫(のうしゅ)がある」と言われました。
F病院には婦人科がなかったため、市内のU産婦人科を紹介されて訪問しました。その日は、すぐに実施できる検査を行い「悪性腫瘍の可能性は低いが、念のためMRI検査をやりましょう」とのことになりました。U病院にはMRI施設がないためお茶の水のクリニックに行って検査を実施し、翌日U病院へ検査結果を聞きに行きました。しかし「F病院の主治医とお話ください」とのことで、4日後にF病院を訪問することになりました。嚢腫があると言われてからF病院を再訪するまでの数日間は、私たちにとって大変長く、とても不安な時間でした。
〈がんになったら総合病院〉
6月22日(金)にF病院を訪ねると「横行結腸からの転移かどうかを確認するために7月2日にPET検査をやりましょう」と言われました。不安は続きました。
この6月は、とにかく時間がとても長く感じました。転移がんだった場合、時間の経過と共に、がんはどんどん大きく成長するのではないかと不安に思いました。
この6月の出来事で、患者家族である私が感じたことは、すべての診察科がありPETやMRIなどの検査ができる総合病院であれば、妻の身体に負担をかけずに、短期間で検査を行い早めに結果を知ることができたであろうということです。
がんという病気は、身体の様々な場所に転移する可能性のある病気です。そう考えると手術を担当していただいたK先生は、私たちに寄り添ってくれた優しくてありがたい先生でしたが、すべての受診科の整っている総合病院であることも大切だと思いました。
お読みいただきまして、ありがとうございます。
次回の家族日記は
〈2度目の入院〉
を10月29日(金)に予定しています。
第20話 一期一会
〈がん患者の家族の体験記〉
2021年10月23日です。今日は、2012年5月を振り返ってみました。
このBLOGは、2010年~2019年までの9年間、横行結腸がん・卵巣転移・腹膜播種・肝臓転移・腸閉塞でも前向きに生き抜いた妻と家族の日記です。
その当時に書いた日記を読み返しながら、患者家族の当時の気持ちを書いてみました。
2012年5月20日(日)の日記
・ママと「城山公園祭り」に行った。はじめて城山神社に行ったけど、確かにお城のあったことをうかがわせる場所だ。おどろいた。
・夜は「フォレスト・ガンプ(一期一会)」を観た。“奇跡は毎日起きている”。
奇跡とは毎日起きている。実は、毎日の何気ない出来事こそが奇跡なんだ。・毎日を大切にありがたく過ごす・・・ということを伝えているトムハンクス主演の名作だ。実話らしい。
※ フォレスト・ガンプ:1994年公開のトムハンクス主演のアメリカ映画。
〈2012年の5月〉
この5月は、四国や中国地方に出張に行っていました。妻の体調のことはいつも気がかりでしたが、自宅を離れるような仕事も以前の様に行うようになっていました。
歩くことはがんに限らず健康に良いと思い、夫婦であちこちに散歩に出かけていました。日記は9年前の楽しい日のことを思い出させてくれます。ありがたいです。
例えば5月6日(祝)には、原宿駅から代々木公園を経てNHK放送センター、そして東武ホテルでバイキング。五反田駅に移動して“ゆうぽーと”で知人が出演するフラダンスショーを観て、池袋にある桂花ラーメンを食べて帰宅したことが書かれています。
また、5月20日(日)は、自宅近くの城山神社のお祭りに出かけました。自宅近くに北条氏のお城があったことに、とても驚きました。
すっかり忘れていましたが、色々な一日を思い出しました。楽しい一日が何日もありました。幸せだと感じた一日を白い紙で、感じなかった一日を黒い紙で表すとしたら、この2日間の出来事は、白い紙で表すことができる一日でした。
白い色の紙が多い一生にすることができたとしたら、それは “幸せな人生だった” と言えるのだと思います。
〈毎日がすべて、その瞬間がすべて〉
お相撲を見ていて思うことがあります。千秋楽での優勝力士への「15日間のいつ頃に優勝を意識しましたか」というアナウンサーの質問に「その日の相撲のことしか考えていませんでした」と答えている力士が多いということです。
その日の相撲に全力を尽くし15日間が過ぎ、その15日間のために日々の稽古に全力を最も尽くした力士が優勝しているのだと思うと、毎日の生活を充実させ幸せだと感じる過ごし方をすることが、自分の人生を飾るための秘訣なのだと思います。
充実した毎日を創るキーワードは、人との出逢いであり出来事との遭遇だと思います。どんな人どんな出来事にも、一生に一度の出逢いや出来事なんだと思って過ごしていきたいと思っています。
お読みいただきまして、ありがとうございます。
次回の家族日記は
〈卵巣転移の疑い〉
を10月27日(水)に予定しています。
第19話 10年後のわたしへ
〈がん患者の家族の体験記〉
2021年10月20日です。今日は、2012年4月を振り返ってみました。
このBLOGは、2010年~2019年までの9年間、横行結腸がん・卵巣転移・腹膜播種・肝臓転移・腸閉塞でも前向きに生き抜いた妻と家族の日記です。
その当時に書いた日記を読み返しながら、患者家族の当時の気持ちを書いてみました。
2012年4月26日(木)の日記
・ママが10年前に第七小学校に勤めていた時に「10年後のわたしへ」手紙を書くという催しがあり、今日その手紙が届いた。その内容を見て心が暖かくなり、自然と涙が流れた。家族のことを心から心配してくれていて感動してしまった。
・ママのおかげで私は幸せである。愛されていることが、何と幸せなことか・・・
※ 10年後のわたしへ:2002年に全校生徒および教職員が、10年後の自分宛
に書いた手紙を学校で保管し、10年後の2012年に届けられた手紙。
〈2012年の4月〉
4月を迎え桜の季節となりました。この頃の日記には、大学生になった娘の学園生活についてや、この4年後に結婚することになった彼女を、息子が紹介してくれたことなどが書かれていました。
2010年12月に手術をした妻は、2011年2月から職場復帰をしました。そしてこの4月から新しい小学校へ異動し楽しく過ごしていました。
そんな中、10年前に勤めていた小学校の催しの〈10年後の自分宛てに書いた手紙〉が届きました。
妻は、がんになるとは夢にも思っていなかったことだと思います。
ふたりの子供は、なりたい仕事は変わっていましたが夢に向かって進んでいました。
昔からの持病で “後縦靭帯骨化症” と “心臓肥大” という病気が私にはありました。妻は自分のことではなく、そんな私を長い間心配してくれていました。
家族のことを大切に想ってくれていた妻に感謝しています。
〈しあわせは “なる” より “感じる” もの〉
最近、こんなことを思っています。
「幸せ」は “なるもの” ではなくて “感じるもの”である。
幸せという美しい花で埋め尽くされた花畑が、この道の先にあって、そこに行かないと幸せに “なる” ことができないとしたら、花畑まで行くことが難しい人=例えば余命宣告を聞かされた人など=は、時間が足りなくて幸せになれないことになってしまいます。
幸せの花はあぜ道に咲くタンポポの様に、足元のこの道に咲いているのだと思います。このタンポポの美しさを “感じる” ことが幸せなことなのだと思います。だから、いまを生きている誰でもが、幸せに過ごせるのだと思います。
9年の間には、完治を目指す時期、共存する時期、そして緩和の時期がありました。
これらの時間を過ごした私達家族ですが、幸せを感じる瞬間がたくさんありました。
私の10年後は71歳になっているはずです。それまでの日々の暮らしには、いろいろなことがあると思います。
道端に咲くタンポポの美しさをしっかりと “感じる” 日々を重ねていきたいと思います。
お読みいただきまして、ありがとうございます。
次回の家族日記は
〈一期一会〉
を10月23日(土)に予定しています。